作品紹介

1969年、ノースカロライナ州の湿地帯で、裕福な家庭で育ち将来を期待されていた青年の変死体が発見された。容疑をかけられたのは、‟ザリガニが鳴く”と言われる湿地帯でたったひとり育った、無垢な少女カイア。彼女は6歳の時に両親に見捨てられ、学校にも通わず、花、草木、魚、鳥など、湿地の自然から生きる術を学び、ひとりで生き抜いてきた。
そんな彼女の世界に迷い込んだ、心優しきひとりの青年。彼との出会いをきっかけに、すべての歯車が狂い始める…。

監督オリヴィア・ニューマン
原作ディーリア・オーエンズ
音楽マイケル・ダナ
脚本ルーシー・アリバー
製作リース・ウィザースプーン
ローレン・ノイスタッター
出演デイジー・エドガー=ジョーンズ/テイラー・ジョン・スミス/ハリス・ディキンソン/マイケル・ハイアット

冒頭はカイヤのナレーションと共に鳥が湿地から海へ、そして沼地へと飛びながら、そこで少年たちに発見された死体へと誘うところから始まります。

自然の中で生き抜く少女から大人の女性へと成長していくカイアを演じるのはデイジー・エドガー・ジョーンズ。
周りの人々に蔑まれながらも芯の強い女性を好演しています。

デイジー・エドガー・ジョーンズ

アイルランドのテレビドラマ『ふつうの人々』で主演を果たし、第78回ゴールデングローブ賞や第67回英国アカデミー賞テレビ部門賞にノミネートされています。
2022年に放映されたテレビドラマで、実際に起きた事件を元にした『アンダー・ザ・ヘブン 信仰の真実』では、信仰が次第にカルト化していく恐怖と被害者になったブレンダ・ライト・ラファティを演じています。

タイラー・ジョン・スミス

カイアに優しく接して恋に落ちていく青年テイトを演じたのはタイラー・ジョン・スミス。
クロエ・グレース・モラレッツと共演した『シャドー・イン・クラウド』やリーアム・ニーソン主演の『ブラック・ライト』などに出演。これからがますます期待です。

ハリス・ディキンソン

テイトの後にカイアに近づき、後にやぐらから落下して謎の死を遂げる青年チェイスを演じたハリス・ディキンソン。
こちらもイケメンで、いかにもお坊ちゃまの遊び人という風で、女性を支配したいタイプの男性を上手く演じています。

引用元:ソニー・ピクチャーズ

感想

小さな町で起こった事故とも事件ともとれる青年の死。
なじみのバーで警察官が耳にした「湿地の娘が犯人」という噂話から、カイアが犯人として捕まります。
自ら弁護を申し出たのは、かつてカイアに優しく接していた、今は引退していた元弁護士。
これで復帰して弁護する、ということなのでしょうね。
そして、裁判の中でカイアが回想するカタチで、これまでのカイアの生き方や事件に発展するまでの流れがわかってきます。

この映画をみて、誰もが衝撃なのはカイアの生き方なのではないでしょうか。
自分を守るために隠れたり、足跡を消したり。自然からいろんな知恵を吸収していく。
自分では到底できないけれど、親や兄弟に捨てられ、周りからも蔑まれ、それでも自分の好きなこの湿地で生きることを選ぶカイアの姿。孤独かもしれないけれど、そこには「自由」があって、だからこそ、それを守るために強くなれる。

テイトとの恋

テイトは、幼い頃からカイアを見てましたよね。すごく親しいわけではなかったけれど、きっと心のどこかにはずっとあったんだと思う。町や人から離れて暮らすカイアに鳥の羽根や電気プラグを届けるテイト。
カイアも全く知らない人ではなかったからこそ、ちょっと安心感があったのかもしれない。
それから羽根を交換したり、テイトが読み書きを教えたりして、二人の距離はどんどん縮まっていきます。

このあたりの展開が自分的にはすごく好きです。
初めてのキスのとき、「これで恋人?」とカイアが言う。
テイトは「なりたい?」と聞き返す。
カイアは「羽根に詳しいの。他の人は違うでしょ?」と答える。
テイトは湿地でよく魚釣りをしたり、鳥が好きだったという母親の影響で鳥にも詳しかったりと、カイアと共有できることも多く、お互いのことを理解し合える存在だったと思います。

けれど、テイトは大学に行って、広い世界を見て成功したいという思いがあり、「湿地から出ない」というカイアに、「必ず戻ってくる」という約束をして町を出ていく。
けれど、約束の日にテイトは戻らない。それがわかったときのカイアの悲しみは自分の胸にも突き刺さりました。
よくあることと言えばそうなんだけど、テイトには戻ってほしかった。
先のことはわからないけど、結婚を約束したわけではないんだし、遠距離恋愛すればいいじゃないかと思ってしまったワタシ。
でもテイトからすれば、湿地から出ないだろうカイアを思い続けることはジレンマを抱えることでもあり、凄く苦しいことだったのかもしれない。

チェイスとの出会い

自分の気持に折り合いをつけた頃、カイアはチェイスと出会う。
チェイスは町でも目立つ存在だったし、時々町に買い出しに出かけるカイアも、チェイスのことは知ってはいたのかもしれない。
チェイスにピクニックにカイアを誘い、カイアも承諾する。

「彼を好きか嫌いかわからない。
でも孤独じゃない。それで十分だった。」

テイトとは違う感情だったかもしれないけれど、自分と一緒にいてくれればそれでいいと、カイアは思ったのかもしれない。
でも会話の中で、違和感はあったと思う。
チェイスは、カイアのことも秘密だったし、カイアの才能のことも自分だけが知っていればいいと言う。
自分の支配下にカイアをおきたがっていて、その兆候はあったのだけど、カイアは自然の流れに任せたのかもしれない。

けれど、それも長くは続かない。チェイスには婚約者がいて、自分は騙されていたことがわかる。
親に捨てられ、兄弟に置いていかれ、テイト、そしてチェイス。
誰もが自分から去っていく。
ずっとひとりきりの生活だったカイアだけれど、それでも今までいた人がいなくなる辛さ。
また孤独になったカイアを癒やすのは、やはり湿地の自然なんだろうと思います。

そして事件が・・・

婚約者がいることがわかり、距離を置こうとするカイアを、暴力で無理やり引き留めようとするチェイス。父親の暴力で去った母をみていて、怯えながら暮らすのは嫌だと思う一方、去った母の気持ちをようやく理解したカイア。

「孤独に生きるのと
おびえて生きるのとはまるで違う」

そこに自由はなく、絶えず恐怖がつきまとう。
母親とカイアの違いは、カイアは逃げずに戦おうとしたところだと思う。

けれど、果たしてそのためにチェイスを殺したのか?

自然の中には必ず「捕食者」と「被食者」がある。
ライオンとシマウマとか、ヘビとネズミとか、蜘蛛と蝶々とか。
それでいうと、チェイスはいわゆる「捕食者」。
被食者は、捕食者に必ず食べられてしまう運命なのだろうか。

例えば、カイアが出版社との会合でホタルのことを話題にしますが、ホタルの光は二種類あって、「交尾用」と「捕食のためのニセの誘い」があるそうで。そういうのはカマキリとか蜘蛛とかだと思っていたらホタルも?!ちょっと衝撃。
けれど、調べてみたらホタル全般がそうではなく、種類によって、他の捕食者から身を守るためにあえて毒を持つ種類のオスのホタルを食べるそうです。

「自然に善悪はないのかも。
生きるための知恵よ。懸命なの」

そうやって自然の側に立てば、もちろんそうなのかもしれない。
ライオンがシマウマを食べるのも生きるために他ならない。
毎日食べているわけではなく、お腹が空いたときだけだ。
カマキリもホタルも、身を守り命をつなぐ術を本能で行使しているだけ。
人間だけが、そこに善悪や道徳観を持ち出してしまう。

「ザリガニが鳴くところ」とは

チェイスの死は「殺人」なのか。「殺人」なら犯人は誰なのか。
それは最後までみないとわからない流れになっているのもいいなと思いました。

また、自分の本当の気持ちに気づいて湿地に戻ってきたテイトをカイアは受け入れるのか。

この映画のタイトルにもなっている「ザリガニが鳴くところ」は、実在はしないと思う。というのも、ザリガニは鳴かないのです。
ただ、映画の中にも出てきますが、兄のジョディが「危なくなったらザリガニの鳴くところまで逃げろ」という。
それは誰も知らない湿地の奥で、きっと安全地帯の象徴なんだろうと思う。
そこがあると思うだけで安心するような。
そして、最後のナレーションにもあるように、そこがカイアのいるところ。そこに、カイアがいて欲しいと願うのです。

この映画を楽しむポイント

やはり、カイアを演じたデイジー・エドガー・ジョーンズ。
一人で湿地に生きる芯が強くも、はかなさもあり、素朴さの中にも輝きもあり、誰もが応援したくなるカイアを見事に演じています。
カイアの素朴なきらめきと湿地の自然のきらめきが相まって、物語はサスペンスでもあるのだけれど、自然の明るさと残酷さも表現されていて、私の中では今まで観た映画の中で一番になりました。

原作に惚れ込んで製作を担当したリース・ウィザースプーンや監督のオリヴィア・ニューマンの手腕は見事ですね。
テイトとの初めてのキスのシーンやハクガンが一斉に降り立つシーンは圧巻で、胸キュンものです。

そして忘れていけないのはテーマソング。
原作のファンであるテイラー・スウィフトがこの映画のために新曲「キャロライナ」を書き下ろしました。映画の最後にこの曲が流れると、更にジーンときます。


この物語は1950年代から始まるのですが、この頃のアメリカの時代背景には「公民権運動」の活発化があります。
この映画には触れられてはいませんが、黒人への差別は根強かったと思います。
カイアを見守る雑貨屋夫婦は黒人で、白人には自分より年下でも敬語を使っていますし、白人には逆らえないものはあったと思う。そういう差別はカイアも同じで、「自分たちとは違う」というところで蔑みを受けます。

今もそこここに根強く残る差別。自分はどちら側になるのか。
カイアを優しく見守り続けた雑貨屋夫婦か、よく知りもしない娘を湿地に住んでいるというだけで蔑んだ町の人々か。

いろんな角度で一つの映画を観てみると、あらたな視点もあり、面白いと思います。